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「それから」

それから」(ちくま文庫版全集第5巻所収)読了。

いわゆる三部作の第二編。登場人物や設定に継続性はないが、その精神において、「三四郎」の続編ということである。

「三四郎」での人物造形の秀逸さには感心したが、本作でも、その巧みさが光る。主人公の代助を始め、友人・平岡夫妻、代助の父と兄夫婦、書生の門野、等々、どのキャラクターも、実に彫りが深い。

代助は、小説で言うところの「高等遊民」だが、今で言えば、ただのスネかじりのプータロー。そのプータローが、一軒家に住んで下女を使うのみならず、書生まで置いているのだから、豪儀なものである。三十路を過ぎても、働かず、結婚もせず、暢気な日々を送っているわけだが、もちろん、当人には当人なりの言い分がある。旧友にして、社会に出てから何かと苦労している平岡君とのこんな会話:

「そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ」
「無論食うに困るようになれば、いつでも降参するさ。しかし今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じことだもの」

・・・良く言うぜ、まったく。

さて、高等なる遊民な日々を送っていた代助であるが、ある日、大阪へ転勤していた平岡とその妻が、職を失って帰京したところから、物語が始まる。

(以下、ネタバレである。今更気にする人はいないと思うが、念の為)

しょっちゅう持ち込まれる縁談に対して、まるで無関心だった代助だが、父と兄の事業に関連する、まさに政略結婚的な意味合いを持った縁談が持ち込まれるに至って、ようやく自己の欲求(本当は誰が好きなのか)を自問し始める。問題は、そこで頭に浮かぶのが、友人・平岡の妻、三千代だということだ。

ここにおいて、代助は選択を迫られる。「親の決めた結婚相手を受け入れ、その後も親がかりで高等遊民の日々を送る」べきか、あるいは「自分の気持ちに従って、友人の妻である三千代を奪い、親からも離れ、自分が今まで否定していた"劣等な生活"に甘んじる」べきか。

近代人というのは、自我の認識をもって「近代人」と自らを定義するわけだが、では、その「自我」とは結局なんなのか? 自ら選択していたはずの、高等遊民の日々は、つまりは親の経済的な庇護のもとでの「自立ごっこ」に過ぎず、ようやく本当の「自我」に思い至った主人公の取る行動が、結局は他人の妻を奪うという、エゴイズムの発露に過ぎないという皮肉。

「近代だ、自我だ」と浮かれ騒いでいた(かもしれない)明治の知識人にとって、「それから」で描かれる物語は、さぞかし胸に刺さるものがあったであろう。

ところでこれ、僕は確か中学3年か高校1年の頃に読んだ記憶があるのだが、きちんと理解していたとは到底思えない。いわゆる「名作」は、確かに思春期に読んでおくべきではあるが、やはりより深くそれらを楽しめる年齢というのがあると、この歳にして、そう思う。

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